個人的雑誌史:90年代から現在
以下は、現在40代前半のグラフィック・エディトリアルデザイナー兼出版人であるNの個人的な振り返りである。
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Nは80年代後半に小学生として過ごした。インターネットはまだ家庭には存在しなかった。テレビやゲームには忌避感があるが本は積極的に購入するという親の方針の影響で、ファンタジー小説や名作小説等の物語に没頭しがちな子供として育った。実家近くの商店街には小さくもなければ大きくもない「普通の本屋」があった。思春期を迎えると(よくあることだが)自分が周囲にうまく馴染めないと考え出し、「今ここではないどこか」を求め出す。中学は学区を離れて新しい世界への期待に胸を膨らませたが、そこはそこでまた違うタイプの閉鎖的空間に移動しただけなのだと感じた。Nは通い慣れた本屋で立ち読みを繰り返すことで知らない世界を垣間見ることに没頭しはじめる。雑誌の売上が書籍の売上を抜いて「雑誌の時代」と言われたらしい80年代には従来なかったタイプの雑誌が多く創刊され、90年代にはさらに細分化する人びとの嗜好に合わせ創刊やリニューアルを繰り返し、書店は、新しいイシューが入れ替わり立ち替わりあらわれ情報が更新される前線だった。もちろん、そこに紹介されている現場に実際に入っていくことと、誌面でただ情報を摂取することは全く別の行為だが、無数の窓から世界の拡がりを見ることには快感があった。Nには特に思い入れる雑誌というのはなかったが、その先にまだ見ぬ状況が拡がっているということが重要だった。
90年代中頃に高校生になると、書店に並ぶ雑誌のなかに「これは自分がまさに読みたいものだ」と感じる雑誌に出会う機会がでてきた。世代や性別やジャンルで読者を区切るというのがいわゆる雑誌編集の型だが、それらを横断する雑誌があらわれ出していた(雑誌が広告出稿先として安定した媒体になり潤沢な予算が流れ込んだ結果、業界の余裕からなのか新規性確保の必要性からなのか90年代にはそれまで見向きもされなかったニッチな層に向けたものも多くつくられ、世代やジャンルを横断して「テイスト」で情報を編纂する雑誌が「普通の街の本屋」にも並ぶようになっていった結果かと思われる)。近所の書店だけでなく都会の大型書店(新宿のタワレコ、渋谷のパルコブックセンター、六本木や表参道の青山ブックセンター等)に通うことも覚え、いわゆるカルチャー誌と呼ばれる雑誌の発売日を楽しみにする日々となる(INFAS発行の『STUDIO VOICE』、ロッキンオン発行の『H』『CUT』『ROCKIN’ON JAPAN』、マガジンハウス発行の『BRUTUS』等々……)。
この雑誌を読んでいる、ということがイコール各自のアイデンティティの開示となるような雰囲気があった(例えば同じ10代女性でも『Olive』を読んでいる人と『egg』を読んでいる人と『mini』を読んでいる人は「クラスタ」がちがう)。音楽やファッションもそういう傾向があった(この音楽を聴いている人とは友達になれない/ああいう格好をしている人とは話が合わない、と断定するようなしぐさ=ゾーニング機能)。インターネットは個人が使うにしては黎明期で、ニッチ中のニッチだった。ニッチはネットの波でふくらみつづけるかと思いきや、SNSの登場やビッグデータの活用がそれを収斂させていく流れになったのだが。
当時のNには、人と違うものを知っていること、それを自分なりのテイストでつなぎ合わせることができる人というのになる、ということが最も「イケている」行為であると思われた。混沌とした世界から何かを拾い上げ、自分の領域に再配置して、それを自らのアイデンティティとすること。Nは現実よりも誌面上の空間にさらに夢中になり、その制作現場に仲間入りしたいと考えるようになったが、誌面に登場する側=プレイヤーとして必要そうな技能(楽器が弾けるとか小説が書けるとか)や身体性(ファッションページの被写体とか)は残念ながら有しておらず、ただ、昔から絵を描くのは好きで、特にデッサンが得意だった。デッサンとは五感で知覚した世界を平面上に視覚的に配置することを試みる作業である。雑誌づくりにおいては情報を配置するという行為(=レイアウト)があり、それがどうも職業として存在するらしい(=エディトリアルデザイナー)ということも雑誌を読んで知る。
同時に、その頃いくつもあらわれたインディペンデント雑誌と呼ばれる一群の活動に憧れたことも大きかった(『Tokion』『米国音楽』『coa magazine』……)。そこで発信される情報はニッチを超えてより個人的になり、個人がつくるものなのにマスメディアに対抗できるクオリティがあるように感じられた。ごっこ遊びから始まったものが本当に仕事になっていくような夢があった。80年代後半に実現されたDTPが一般化しつつあり、PCと出力機があれば個人でも雑誌をつくることができるということも誌面から学んだ。これまた雑誌で、グラフィックデザイナーはCDや本や雑誌を横断して仕事をできるらしいと知り(デザイン誌も多数あった、『アイデア』『デザインの現場』『design plex』『広告批評』『MdN』……)それになると決め、美術予備校に通い美大に入学し目の前の課題をこなしつつ、日参していた近所の書店でバイトを始め、バイトのない日は別の本屋に訪れ、古書店に行くことも覚え(古書店では過去の雑誌が気軽に安売りされていて、ADが横尾忠則だった時代の『流行通信』、仲條正義が手がける資生堂の会報誌『花椿』、花森安治が編集長時代の『暮らしの手帖』等を知っていく)、世界がどう編集され雑誌化していくのか、切り取られたものがどう世の中に影響していくのか、そしてどの雑誌がどう世の中を切り取るのか、どの書店にはどの雑誌がどういうふうに並べられるのか等々をウォッチし続ける日々だったのだが、Nがウォッチに勤しんでいる間に雑誌業界は急変する。
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Nは就職氷河期といわれる時期に学部を卒業し、当時花形だった広告業界への記念就活では見事に相手にされなかったが、よく読んでいた雑誌を多く手がけるエディトリアルデザイン事務所に拾ってもらう。ついに現場に、と思いきや、リーマンショックの影響で雑誌はどんどん休刊・廃刊になっていった。インターネットでやりとりされる情報がうなぎのぼりに増え「紙媒体はもう終わりだ」という言説にも花が咲いていた。そんななかでも雑誌制作の現場で知ったのは、面白い雑誌というのは個人がつくっているということだった。編集部はチーム制で動いていたが、ひとつの特集をつくるのは個人が責任を持つことが多かった。個人と個人のぶつかり合いが誌面をうみ、それがひとつの屋号のもとにある傾きをもって寄り集められることで、雑誌は雑誌たりうる。拡がりを持って見えた窓をつくっているのは実はとても狭いコミュニティだった。しかしそれがあくまで雑誌名という「屋号」のもと編纂されている、という「拡さ」を錯覚させる(=個人対個人ではなく、屋号対個人)というバッファ、余白のあるコミュニケーションが雑誌の魅了なのだということも理解するようになる。
同時に、ウォッチャーに席はないということも思い知った。現場が全てなのだ。考えてみれば当たり前のことではある。何かを拾い上げるには、その場所に居ること、そしてそのコミュニティに信頼されることが不可欠だ。レイアウトというのは技術的な側面も大きいが実はとてもフィジカルな行為で、同じフォーマットを使用して同じ素材を扱うとしても、現場の空気や文脈を知っている人の方が芯を食ったレイアウトができることの方が多い。誌面や画面越しの情報を眺めているだけでは情報量が圧倒的に足りないのだった。
とはいえ急に現場主義になれたわけでもなく、デザイナーとしての基礎体力を鍛えつつもNはウォッチャーに甘んじる。2000年に2回めのリニューアル復刊を遂げた『relax』(AD:小野英作)には雑誌の「ゾーニング機能」の極地という印象を持った。隙間なく情報を載せていく他誌に対して、すっきりとしたグリッドと白地を保つレイアウトの清々しさはそれ自体が「他と違う」ことの表明だった。2002年にスタートした『ku:nel』(AD:有山達也)も、個人の生活をビジュアライズし物語化するという編集方法の大胆さがそのまま誌面レイアウトの構造になっていて、雑誌が情報を発信するものではなく美意識みたいなものを発信していく存在になる先駆けと見えた。欧米圏の雑誌を見ることも増え、クリエイティブエージェンシーのWork in Progressが創刊した『Self Service』がインディ的な存在からメジャーに駆け上がるクールな雑誌となったり、グラフィックデザイナーのJop van Bennekomが創刊メンバーであるクィアカルチャー雑誌『BUTT』がドライな親密さをもつ新鮮な編集とデザインで支持されていくのを横目で見たりしていた。『ku:nel』と同じく2002年にリニューアルされた『流行通信』(AD:服部一成)は、使用書体を極限まで絞りメリハリを廃したレイアウトを採用することで、日本の雑誌にあった独特のムードを除湿し、そういった欧米のインディマガジンたちの潔い自己表明と繋がっているように思えた。
Nはその時期、資生堂『花椿』編集部出身の林央子が始めた『here and there』(AD:服部一成)、フランスのギャラリストだった男女のカップルが創刊した初期の『purple』(AD:大類 信、クリストフ・ブルンケル 等)に影響を受ける。それは雑誌が個人でつくられていることをむしろ前向きに押し出し、さらに先鋭化させたものたちだった。編集者ひとりないしふたりとグラフィックデザイナーひとりの小さなチームが信頼しあい親密さを持ってつくり出すその雑誌たちの佇まいは瑞々しく、自分たちの理念や美意識を伝え合うような場として見えた(その後『here and there』は個人的であることを続け、『purple』は商業的な方向と個人的な方向に分裂した)。デザイナー兼出版人である立花文穂が発行する『球体』にいたってはひとりで編集・デザイン・製本を手がけていて、その存在自体が紙媒体の究極の先鋭化であると感じられた。
その後Nは幅広い仕事を手がけるデザイン事務所に転職し、ブランディングやCIや広告やブックデザイン等々、グラフィックデザイナーが手がけそうなことをおおよそ経験した。新しい職場は刺激的だったが、自分が根本的に向いていることとは何かを考えさせられた。それは扱う仕事の領域というよりも、数だった。自分が関わるものが100万人を相手にするものなのか、10万人なのか、1,000人なのか、100人、むしろ10人程度なのか。どの規模のコミュニケーションを考えるのが向いているのか。Nは100〜1,000、多くて3,000くらいの幅が一番実感を持って打ち込めると感じた。これはリトルプレスと呼ばれる出版の規模と重なる。
リトルプレスやZINEという出版形態が日本で広まった2000年代後半、Nは表参道にあったアートブックを主に扱う書店「NADiff」や「ユトレヒト」でまずその動向を知る。いまは数万人を集めるイベントとなった「TOKYO ART BOOK FAIR」の前身である「ZINE’S MATE」初回(2009年)の会場も原宿にあったVACANTだった。90年代にも個人が発行するフリーペーパーブームというのはあったのだが、それは、企業がニッチに対して目配せするものだったり、マスに対してニッチな側がそれを自覚してアンチ的につくるという性質があった。しかし2000年代のリトルプレスは、マスで出せたはずのものがもう出せない、だから自分でやるしかない、という、シュリンクされた業界に対する諦めから生まれたものが多かったように思う。同世代の編集者は自分がやりたい企画を実現できる可能性の絶望的な少なさに業を煮やしているように見えた。一昔前だったら「いいんじゃない、やってみれば?」と言われたはずの企画が、通らない。安牌に見える過去の繰り返しを延々とせねばならないことに対しての反発が色々な場所で煮詰まっていた。Nはリトルプレスを制作する同世代のチームと出会い、参加し、企画会議や取材に同行し、危機感を共有しながら自分たちが伝えたいことは何かを一緒に探る行為を繰り返すことで、やっと初めて「雑誌づくりの現場に入った」という感触を得た。
ちなみにZINEは、マスのことは最初から勘定にはいっておらず、自分たちのコミュニティを半径5mくらいで拡げたり強化したりするための制作物という意味合いが強かったように思う(それが結果として遠くの読者に発見されることはあっても)。Nは当時のZINEの「近視的なふるまい」にうっすらと違和感を持ち、そこまで熱心に接してはこなかったのだが、著者=製本する人でもあるという精神が醸し出す純度の高い制作物のムードが結果的に多くの人を動かすカルチャーとして受け入れられたのだなとも思った(そのぶんZINEという名称の文化的搾取も生じることになった。昨今は小部数の小冊子のことをなんでもZINEと呼ぶようになってしまっている)。
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Nは独立して事務所を立ち上げ、ウェブメディアの発行する雑誌のADという仕事も経つつ、程なくして自分で雑誌(のようなもの)を創刊した。自分でつくろうと思ったのは以上の経験の溜まりの結果であり、そうするしかなかった、というと格好つけた感じもするが、そうするしかなかった人は他にも何人かいて、同じような時期に個人が制作する雑誌の創刊(『TO magazine』『STUDY』等)や、「ひとり出版社」の設立が静かに続いた(夏葉社、里山社 等)。出版流通も変化しつつあり、従来の流通を使った書店の運営ではないかたちで個人が始める書店も増えていた。作り手と売り手が「こうせざるを得ない」と熱を持って草の根的にやっていく機運があった。
実際にNが雑誌(のようなもの)を発行してからの反応は、正直なところ特になかった。SNSを検索してもどこかに届いているという実感は希薄だった。しかし制作は楽しかったし、つくりながら近しいマインドを持つ者同士がつながっていける状況に興奮し、お金のことはなんとか他の仕事でやりくりしながら号を重ねた。数年経つと、どうも読んでいてくれている人がいるらしいことがわかってきた。初号の刊行から9年が経ち、同じタイトルの刊行物としては5冊しか出せていないにもかかわらず、作り手側のプレイヤーに「学生の頃から読んでました」と言ってくれる人が現れ出す(遅効性)。
2024年現在、雑誌はさらに売れにくくなっている。コロナ禍以降の物価高で制作費もきつい。あたりを見まわせば広告媒体としての雑誌はシュリンクし続けているし、情報の速さで売れていたなんて今の10代からしたら信じられないだろう。コミュニティをつくる機能だけはかろうじてあるとまだ作り手は思っているが、それもかなりあやしい。が、なぜか昨年〜今年にかけて、小さなチームが雑誌という形で紙媒体を発行し始める動きが目立つ(『HOJO』『MAKING』『Troublemakers』『CRX Magazine』等)。2020年より発行され、リトルプレス的な精神とZINE的な制作方法の融合を試みる『NEUTRAL COLORS』の活動も注視される。誌面にふれて、その窓からどこか知らない世界につながっていき、それが読者の行動になにがしかを生み出すという雑誌の機能はまだ失われていないのだろうか。
Nがインストールしてきた90年代的な雑誌的なコミュニティの在り方、言うなれば「これを読んでいる私たちと読んでいない他者を区切って、その中での状況を楽しむ」という在り方は、前時代のものとなっている。今はもっとオープンでゆるやかで瞬間的だ。それはそれでいい。だがNはその「外から見るとよくわからない状況」かつ「その時にしか生まれなかった状況」を形として残したいと考える。常に新しい気配を察知し、それに対してその時の誠実さを返し、形にして、大海に投げる。それをたまたま書店という場で拾い上げた人が「自分もなにかを形にしてみよう」という気持ちになってもらえたらいい。コミュニティは変化しながら生まれ続ける。それが残って後からやってくる人に参照される。そういう循環をどうやったら維持できるのか、ということが、Nが雑誌的なものをつくる動機であり、かつて多くのアーカイブから受け取ってきたさまざまな「状況」を未来につなげていくための祈りみたいなものでもある。
米山菜津子(よねやま・なつこ)
グラフィック・エディトリアルデザイナー。 東京生まれ。 2003年東京藝術大学デザイン科卒業。 CAP 、PLUG-IN GRAPHICを経て2014年にYONEYAMA LLC.を設立。出版レーベル YYY PRESS主宰。オムニバス冊子『GATEWAY』を不定期で発行するほか、オルタナティブスペースSTUDIO STAFF ONLY運営としても活動している。
公開:2024/07/25
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