私たちは世界をまだ知らない

20世紀の終わりから現代にかけて、デザインという産業領域は大きく変化してきた。戦後デザインの爛熟、モダンデザインへの反動と質的な変容、情報資本主義時代の到来、世界秩序の再編……混迷を極める現代に対しデザインという枠組みはなにを提示できるのか。デザインの現場を取材し続けてきたジャーナリストによる体験的論考。
バナー写真:第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展(2025年)ハンガリー館ステートメントの一部
かつて美術出版社が発行していた『デザインの現場』という雑誌の編集部に入ったのは、1990年代初頭のことである。当時はまだ筆者とのやりとりは電話とFAXで、駆け出しの頃、原稿を電話で催促したら、「いま夕飯食べてるんだ! 電話すんな!」と怒鳴られたことは忘れられない。その後、メールが登場したときには心底ほっとしたものだった。
1989年にベルリンの壁が崩壊して、世界にはまだ展望があった。
デザインは世界の空気感と無縁ではない。見えないものを可視化するのはデザインが持つ大きな力のひとつだから、見えないもののなかから、高揚感や新奇さ、楽しさ、おもしろさを訴求する傾向は、消費の増大とともに拡大していき、デザイン表現がクリエイター個人の造形表現として洗練されていった。特に、日本国内では90年代の大貫卓也や佐藤雅彦など、広告代理店系のクリエイティブは消費の楽しさを誘発する力が発揮されていたと思う。
「Less is more」、すなわち「より削ぎ落としたものがより多くのことを語る」というモダンデザインの本流に対して、「less is bore」と造形性の欠如を指摘したポストモダンデザインが80年代に登場したのは、特に消費を楽しんでいた日本の消費者に受容された面もあるし、デザイン側においても、“新たな表現”としての個性を楽しむ時代だった。
デジタルテクノロジーの黎明期を目前にして、まだ不完全なコンピュータに“できること”を工夫した「バカCG」などのイラストレーションは新鮮だったし、『デザインの現場』第44号(1990年10月号)の特集では家具と立体造形表現の境界線上にある作品を「アートファニチュア」と呼んでみたりもしたけど、駆け出しの編集者としてはなんだかもやもやしてもしていた。

ポストモダン……おもしろいことはおもしろいんだけど、デザインってなんなのかな?
いまにしてみれば、モダンデザインのある種の機能美重視の傾向に対する、創造性の面からの反乱でもあったわけで、グラフィックデザインにおいても、デイヴィッド・カーソンが可読性重視のエディトリアルデザインのルールを「ぶっ壊した」ため、世界中でタイポグラフィ論争が巻き起こったのも、モダンデザインというくびきから、デザイナーたち自身が逃れようとしてたのだ、ということもよくわかる。先ほどの『デザインの現場』から約10年後の特集「日常感覚のファニチャーデザイン」(第105号、1999年10月号)でわざわざ「日常感覚」なんて言葉を使ったのも、いまにしてみればそんな気分を反映していたのだろう。

2003年にウォーカーアートセンターで開催された「Strangely Familiar: Design and Everyday Life(なんだかなじみがある:デザインと日常)」という展覧会のタイトルには当時ちょっとうなずけるものがあった。

出典:https://walkerart.org/calendar/2003/strangely-familiar-design-and-everyday-life/
ダン&レビーやマルセル・ワンダース、エレファント・デザインやアトリエ・ワン、MVRDV、レイチェル・ホワイトリードなど、参加クリエイターのジャンルはプロダクトからファッション、建築、ファインアートまで幅広い。彼らは確かにモダンの系譜に位置するけれど、その作品を「奇妙で身近」ととらえた展覧会タイトルには、20世紀の終わりの空気感を感じた。デザインは人工物の生成であり、モノと人との関係性の上に成り立つ事象に新鮮な表現で風を吹き込み、新たなものの見方・あり方を伝える役割を果たす。その役割は現在でもある意味変わらない。
それにしても20世紀が想像していた21世紀ってこういう世界だったんだろうか?
“大きな物語の消失”とはポストモダン期にはよく聞かれたけれども、現在の消失ぶりはそれ以上ではないか。ある意味、世界を形成していた(と考えられていた)根底の理想(のようなもの)が壊れているように感じて仕方がない。それでも、2020年頃までは気候変動への対応や人権や貧困に対して足並みを揃えてよりよい世界を実現したいという思いはまだあって(いまでもある)、そのためにデザインは「よりよい」を目指してできることがまだまだたくさんあると思われた(いまでも思っている)。
「Design for the Other 90%(残りの90%の人々のためのデザイン)」(クーパー・ヒューイット国立デザイン美術館〔当時〕、2007年)や「コミュニティデザイン」や「ソーシャルデザイン」という言葉は、モダンデザインの理念のうちのひとつである「地味な要求にも応えること」がいかに現代社会にとって重要な観点であるかを掘り出す社会情勢を反映しているし、さらにそれはいわゆる“ソーシャル”な、つまり現行の社会システムからこぼれ落ちてしまっていることや、社会全体によりよくなることをデザインしていこうという気運を醸成していった。

いわゆる草の根レベルで社会や地域で活動している人々の行動も“デザイン”の領域でとらえ、「仕組みのデザイン」としてデザインがカバーする領域が明らかに広がったのも、「成熟した社会の現行システムの綻び」という課題解決をデザインに期待されることが大きかったからである。デザインプロセスにはものごとに対する視点(編集)と視点の視覚化(表現)のふたつの側面があるわけだけれど、現代の力点は編集の方に置かれはじめたように思える。
たとえばSDGsは、国連が出した世界の再編集テーマの提示であり、テーマに対して各国や企業がどのようにデザインしていくのかという問いなのだといえるだろう。諸々の議論はあったとしても、SDGsというのは世界規模で取り組むべきひとつの物語の始まりだ、ととらえることができたわけだし、こうしたものごとに対するデザインからの提案が、デザインがものの姿形を美的にする行為であるという一般的な人々の捉え方から、ものが存在する意味の形成とともにある、という捉え方へと変化する後押しもしてきたと思う。
ソーシャルイノベーションの専門家エツィオ・マンズィーニの著書『誰もがデザインする時代のデザイン』(ビー・エヌ・エヌ、2026年、原著MIT Press、2015年)は、社会課題に向き合うデザインにはデザイナーだけでなく草の根活動をする人々との協働が必要であり、そこに新しい文化が生じるのだと述べられている。

向井周太郎の、「デザインはひとつのディシプリン(専門領域)に特定しえない専門性であり、問題やプロセス全体の総合性に、その専門的特質があります。(中略)それは一方で哲学にも似た総合性ですが、しかし一般的ないわゆる哲学と違うのは、デザインが生活世界という具体的な生の現実世界の形成を対象としていることです」(『現代デザインを学ぶ人のために』嶋田厚編、社会思想社、1996年)という一節が心に残っている。そもそも社会は生(なま)なものであって、デザインは、向井のいう「具体的な生の現実世界」の“意味”をモノゴトとして“現出”させてきた。
マンズィーニがデザインと社会活動をする人々との間をとりもとうとしているのは、デザインが専門性とともに細分化されてしまったことへの反動でもあるだろう。かつてイタリアのデザイナーたちは、デザインを「プロジェッタツィオーネ(プロジェクトをつくること)」と呼び、社会の在り方を啓蒙するものとして考えていたという。その意味で、デザイナーは本来、社会をデザインするという理念とともにあったのだろうし、その社会のなかにデザインすべきもの・デザインしなおすべきものが多々あることを認識していたはずだ。ところが、近代デザインはモノのデザインに邁進していき、そこに満足してしまったのではないかと思う。
しかし現代社会の中では、モノというよりも、モノの背景にあるモノゴトの仕組みに、これまで以上に目配りをしなければいけなくなっている。「生(なま)の現実世界」のシステムは複雑に絡み合った、いわゆる「厄介な問題」も多く、デザイナーがひとりで立ち向かうことが難しくなっている。ある意味で、最終的なモノというアウトプットを形作るだけではなく、社会という現実世界のランドスケープのなかに存在するひとりとして、なにが必要なのかを考えなければならない時代になっているようにも思う。
そうなると、デザイナーは最終的なアウトプットにおいて、社会性を帯びたモノゴトのあれこれとつきあわなければならない。そこでは、これまでデザイナーがいた世界とは異なるパワーともつきあわざるを得ないだろう。そうなれば、これまでのようなデザイナーの仕事とは違う働き方も必要とされるだろうし、働き方も変わらざるをえない。
欧米では21世紀になってからモダンデザインへの反省の弁がよく聞かれるようになった。近代社会の押し付けによる先住民族文化への弾圧や、ジェンダー問題、デザインされてきた人工物が起こしている環境破壊等々である。それらを認識した上で、SDGsのいうところの地球規模の課題に対するデザインからの回答が2023年の第18回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展にはあったかなと思う。
総合ディレクターのレズリー・ロッコはガーナ系スコットランド人で女性の建築評論家である。彼女が打ち出した総合テーマは「The Laboratory of the Future(未来の実験室)」。文化の多元性や政治による抑圧・紛争、気候変動、資源循環……等々、現代社会が抱える課題に対してデザイン(建築)はなにができるか、なにを提案するのかという展示が目白押しで、たいへん見応えがあった。

出典:https://www.labiennale.org/en/news/biennale-architettura-2023-laboratory-future
Googleマップから強制収容所の位置を割り出したジャーナリストの記録や旧植民地に建てられた近代建築の再調査、先住民族の建築や暮らし方の見直し、さらに、こうした国際展だと否応なく政治情勢が影響するけれども、ロシアのウクライナ侵攻に抗議して草むらに旗を立てただけの特別展示があったのも建築展らしい抗議のあり方で、とてもよかった。そして、トルコ館の展示ステートメントに引用されていた彼女が言った言葉が印象的だった。「hope is a powerful currency(希望こそが強力な通貨なのだ)」。


2023年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展があまりにおもしろかったので、2025年展にも行ってみた(ヴェネチア・ビエンナーレは隔年でアート展と建築展が交互に行われる)。総合ディレクターはイタリア人のカルロ・ラッティ。前回のロッコが提示したテーマの路線を引き継ぎつつ、「Intelligens. Natural. Artificial. Collective(知能。自然。人工。集合知)」を掲げた(本来、intelli“gence”と綴られるところが“gens”となっているのは、gens(人々)をもじっている)。
気候変動に対するAIなど新技術を使った実験、建築物の解体と保存の実践、伝統技術と新技術との融合など、若干雑多な印象だったのだけれども、そのなかではハンガリー館の展示が皮肉で笑えたので、述べておきたい。
タイトルは「There is Nothing to See Here. Export Your Knowledge!(ここには何も見るものはない。知識は他で活用を!)」(展示公式サイト)。「建築家という職業の未来」をテーマにしたこの展示は、キュレイターのマートン・ピンデルの10年にわたる研究成果「プロフェッショナル、スペシャリスト、そして技術者」という論文を元にしているという。
建築を学んだあと建築以外の仕事を選んだ人々の作品や建築を学ぶ学生や専門家へのインタビューも展示されていて、コストや効率にばかり目がいく建築実務の実態への諦めや失望が読み取れる。「建築の知識を活かして、ほかの業界でがんばれ!」というメッセージである。入場する際には気づかなかったが、エントランスの壁には大きく「No is more…」と書かれていた(笑)。


昨年、久しぶりに大阪で開催された「DESIGNEAST」で、本当に久しぶりにあるデザイナーの知人に会ったら、「デザインが難しくなったね」という。「なんか、社会課題とか難しいことをやんなきゃいけないようになっちゃってさ。造形することが大好きなんだという人が置いていかれているような気がする」と。わかる気がする。やはり、造形の美しさは、やっぱりデザイナーのやるべきことのひとつとして大きいと思う。
また、あるウェブデザイナーは「テクニックとか最新ツールの使い方はYouTubeを見れば出てるしさ」と言った。グラフィックツールを使えば素人でもそれらしくまとまってしまうけれども、だからといって優れて良いデザインになるわけではない。
つまりは、デザイナーが持つべき役割は、確かに美しさや楽しさを提示することは大事なことなのだけれども、それ以前に、社会の中に新たな視点を発見することだったり、混沌を整理することだったり、実現するためのコーディネートだったり、かたちにする能力だったりするわけで、これがデザインというものの基本的な力だと考えると、改めて、デザインを旧態依然のごとく交通安全ポスターをつくることに集約させる児童教育から子どもたちを救わなければ、などと焦ってしまう。
すべての人類が感じていることだと思うけれども、これまでの社会があたり前としていた前提が瞬く間に崩れるのではないかという危機感がある。
某国某指導者たちの傍若無人なふるまいに国際社会は混乱しているし、もはや生活に欠かせないツールとなったSNSにはフェイク情報が紛れ込み、望むと望まざるとに関わらずアルゴリズムで抽出されたオススメばかりが現れ、エコーチェンバー現象によって情報が囲い込まれる。検索すればAIがすぐに要約してくれてしまうので、わかった気になってしまう。個人が自由に発信でき、世界中の情報の宝庫だったように思えたネットワークの世界が逆に錯綜と分断の世界になりかねない。
デザインすること自体は誰の手のなかにもある。使える技術も多様だ。そうなったとき、なにをデザインするのかという対象を見出すことからデザインは始まるのかな。白黒どちらが正義なのかなんてもはやわからないくらい混沌とした世界で、白につくデザインも黒につくデザインもあるなかで、自由でオルタナティブなデザインが世界中に喜びを満たしてくれることを願っている。
うまくいえないけれども、まだまだ気づいていないことがたくさんある。ネットで調べればすぐにわかったような気になってしまう。しかし、それは本当に知ったことになるのだろうか?「You know nothing of the loves of the soils.(あなたはまだ土の愛を知らない)」。これもまた第18回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展のベルギー館の展示にあった言葉。知っていることの増幅ではなく、知っているようでいて知らないことをを発見したい。ただ、それを見つけることすら、もはや難しくなっている。デザインはそれをまず、乗り越えなければならない。
政治の力学が大きな転換点を迎えているいま、私たちはどうあったらいいのか?——あらためて、これが出発点である。私たちはまだ知らないことだらけである。世界はもっとやさしさや愛しさに満ちているはずなのだ。世界で起こっていることや日本の未来を考えながら、少々、ペシミスティックな気分になっている2026年4月である。

紫牟田伸子(しむた・のぶこ)
編集家/デザインプロデューサー/デザインジャーナリスト。「ものごとの編集」を軸に企業や社会・地域に作用するデザインを目指し、商品開発、ブランディング、コミュニケーション戦略などに携わる。2017年よりFuture Research Institute代表取締役。近著に『日本のシビックエコノミー:私たちが小さな経済を生み出す方法』(フィルムアート社、2016)、『痛みを希望に変えるコミュニティデザイン』(筑摩書房、2023)、『新・編集学―世界を見る目、構想する力』(京都造形芸術大学東北芸術工科大学出版局、2025)など。多摩美術大学ほか非常勤講師。
公開:2026/04/13
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