The Graphic Design Review

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エフェメラ、‘平凡’なグラフィックの研究に生涯をかけて

エフェメラ、‘平凡’なグラフィックの研究に生涯をかけて

イギリスのレディング大学は書体デザインやタイポグラフィについての教育や研究が盛んなことで知られる。近年ではタイポグラフィへの関心の高まりを背景に、同校には世界各地から多くの学生が集まっている。同校のタイポグラフィコースの創設者であるマイケル・トワイマンはエフェメラ、つまり「日常生活で用いられていたなんでもない印刷物」の研究における第一人者としても知られている。トワイマンがエフェメラを通じて学生に伝えたい視点とはなんだったのか。その謦咳に接した著者がレポートする。

◉トワイマンの教室

 

毎週月曜日の午後、教室に向かうと、寄せ合わされた机の上にはさまざまな歴史的な印刷物が密集した状態で並んでいる。「本日のテーマはなんだろう」と思いながら教室に入っていくと、コレクションのオーナーであるマイケル・トワイマン(Michael Twyman)が私たちの反応を待ち望むように背筋を伸ばして迎え入れる。

 

2013年から2014年にかけてイギリスのレディング大学に留学していた私は、トワイマンのエフェメラについての講義を楽しみにしていた。エフェメラとは長期的に使われたり保存されることを意図していない、手書きの書類や印刷物のことである。イギリスのエフェメラ・ソサイエティはエフェメラをThe minor transient documents of everyday life(日常の一過性で些細なドキュメント)」と定義している。

 

しかし、社会から個人へと視点を変えれば、エフェメラは決して「一過性」のものではない。結婚証明書、パスポート、学校の通知表さらには死刑執行を命じたメモなどもエフェメラに分類されるが、それらが当人にとって「軽微な」資料であるはずはない。

 

トワイマンは当時すでに80歳のベテランで週一度、大学に来ては自身のエフェメラ・コレクションを用いた講義を行っていた。17世紀にまでさかのぼる印刷物の実物を間近で見ながら、私は歴史や社会、印刷技術の発展と表現だけでなく、一人の人間の生涯を垣間見せるような先生の話に聞き入った。10年たった今でも、私はこの授業で感じたワクワク感や好奇心を忘れることができない。

エフェメラ、‘平凡’なグラフィックの研究に生涯をかけて
マイケル・トワイマン
エフェメラ、‘平凡’なグラフィックの研究に生涯をかけて
書物にみるさまざまな年表
エフェメラ、‘平凡’なグラフィックの研究に生涯をかけて
映画のフライヤー
エフェメラ、‘平凡’なグラフィックの研究に生涯をかけて
銅版画の扉絵コレクション

◉タイポグラフィ教育とエフェメラ

 

レディング大学はとくにタイポグラフィについての教育および研究で国際的に知られるが、トワイマンは1974年に同校にタイポグラフィ・グラフィックコミュニケーション学科を創設した人物でもある。

 

1934年にロンドン郊外に生まれたトワイマンは、レディング大学で版画、タイポグラフィ、レタリング、ブックデザインを専攻した後、ケンブリッジ大学で教育について学んだ。1959年、トワイマンは25歳という若さでレディング大学の教員として招聘されることになった。

 

その当時、グラフィックデザインは美術専攻の一分野で、しかも応用芸術として低く評価されがちであった。しかし、トワイマンはその社会的な重要性を理解し、デザイナーに分析的思考、技術的理解、言語の尊重、社会的責任を教えるためのカリキュラムが必要であると考えていた。着任当初、タイポグラフィや美術史を中心に教えていたトワイマンは、やがて最良の建築教育と同じように理論、実践、歴史を統合したデザイン教育の必要性を痛感し、1968年に『タイポグラフィおよびグラフィックコミュニケーション』課程を立ち上げた。

 

新しく立ち上げた学科の名称をあえて『タイポグラフィおよびグラフィックコミュニケーション』としたのは、トワイマンがタイポグラフィをグラフィックデザインの中核分野と考えていたことに加え、「デザイン」という言葉が視覚的な要素に限定されがちで、しばしば誤解を招くものだったからだ。

 

トワイマンはまた、このカリキュラムにおいてはエフェメラが重要な研究対象になると考えた。というのも、トワイマンはタイポグラフィック・コミュニケーションの重要性は芸術的なものとして作られた作品ではなく、「社会の日常的な要求を満たすために作成される小規模な資料」(トワイマン)であるエフェメラによく表れていると考えていたからだ。

エフェメラ、‘平凡’なグラフィックの研究に生涯をかけて

そのようなトワイマンの関心は、1960年代のエフェメラを巡る研究の進展にも影響されていた。その頃、オックスフォード大学出版局が印刷物・エフェメラ資料である「コンスタンス・ミード・コレクション(Constance Meade Memorial Collection of Ephemeral Printing、現the John Johnson Collection of Printed Ephemera)」を公開しはじめ、1963年にはジョン・ルイスによるエフェメラ研究書『Printed Ephemera』も出版された。

 

また1960年代半ば、トワイマンはイギリス田園生活博物館 (The Museum of English Rural Life)から印刷家のジョン・ソウルビー (John Soulby)についての展覧会とカタログのキュレーションを依頼され、これをきっかけに本格的にエフェメラ研究を開始した。

 

さらに、トワイマンは1970年には近代印刷技術の発展とエフェメラの関連性を分析する『印刷 1770年〜1970年:イギリスにおける印刷の発展と用途の歴史(Printing 1770–1970: an illustrated history of its development and uses in England)』を上梓した。

エフェメラ、‘平凡’なグラフィックの研究に生涯をかけて
Michael Twyman, “Printing 1770–1970: an illustrated history of its development and uses in England”, Eyre & Spottiswoode, 1970

◉エフェメラが語るもの

 

レディング大学におけるトワイマンの講義は、エフェメラを題材にすることで学生をデザイン史にとどまらない広義の文化史に接続させるものだった。トワイマンがエフェメラをデザイン教育のカリキュラムに組み込んだ理由について、彼は筆者に次のように語ってくれた。

 

「エフェメラはレタリングや書体、印刷技法、素材(厚紙、コルク、セロファン、セルロイド、ホイルなど)、サイズ、加工(エンボス、型押し、ミシン目)などにおいて豊かなバラエティを示しています。これらを追いかけることで、素材や技術の発展と普及も読み取れます。エフェメラはデザインの観点に留まらず、社会の歴史とも深く関わっています。それゆえ、エフェメラはタイポグラフィやデザインの学習素材として重要なものなのです。小型のものが多いので持ち運びが比較的自由で、クラスで学生たちが共有して鑑賞しやすいというのもいいですね」

 

ここからは講義で見せてもらったエフェメラについて、とくに印象深かったものを紹介したい。

 

私が受けた1回目の授業は書類の印刷物のセッションだった。この授業は印刷技術だけではなく、書類の文章形式(なかでも定型的な書式)の発展について勉強する機会にもなった。

 

そこで見せてもらったのが、子供の誕生を記録する出生証明書である。母親のサイン欄には名前の代わりにペケ印があり、その女性が文盲であったことを明らかにしている。このような一見ささいな書類からも、当時の社会状況(多数の女性が一般教育を受けられなかった)が読み取れる。

エフェメラ、‘平凡’なグラフィックの研究に生涯をかけて
子供の出生証明書

次に、さまざまなサイズとウェイトの多種多様な書体を用いた19世紀前半の活版印刷ポスターだリトグラフィ(石版印刷)が普及し、さらに日本の浮世絵が視覚的なインスピレーションとして導入されるまで、このような形式はヨーロッパのポスターの主流だった。

 

文字がぎっしりと詰まっているが書体、ウェイト、サイズで情報のヒエラルキー(階層)を視覚化し、読み手の視線を導いている。これらのポスターはしばしば19世紀のデザイン的混乱の例として言及されるが、その書体の多様性は手元にあった限られた書体を最大限に利用し尽くした結果でもあった。

エフェメラ、‘平凡’なグラフィックの研究に生涯をかけて
19世紀前半の活版印刷ポスター

この1828年のポスターには、穀物や食肉用動物と並ぶ商品として「SLAVE」、つまり奴隷があげられている。

エフェメラ、‘平凡’なグラフィックの研究に生涯をかけて
「奴隷」の販売を宣伝するポスター

次に、医学生の教材用に作られた仕掛け図鑑だ。写真、映像やコンピュータシミュレーションがなかった時代、学問の場では人体の構造をグラフィック・メソッドを用いた大型の「教科書」で教えていた。紙をめくっていくことで、皮膚の奥に隠れている臓器の配置や内部構造などを確かめることができる。

エフェメラ、‘平凡’なグラフィックの研究に生涯をかけて
エフェメラ、‘平凡’なグラフィックの研究に生涯をかけて
人体の構造を示す医学用の仕掛け図鑑

◉ポストデジタル時代におけるエフェメラ

 

思えば、私のグラフィックデザインへの興味は、自分なりの「エフェメラ・コレクション」から始まったのかもしれない。私はドイツで育ち、夏休みには家族旅行でポルトガル、イタリア、スペインといった南ヨーロッパに連れて行ってもらった。そこで出会った色鮮やかなデザインのナプキン、お菓子の包装紙、砂糖の包みなどを持ち帰り、(もともと焼き海苔が入っていた)缶に宝物のようにしまっていたことを思い出す。大学生になってからもデザイン、加工やテクスチャが気になる小さい紙媒体を集め続け、時折眺めていた。これらが私のデザインのインスピレーションになっていたことは確かである。

 

ポストデジタル時代の今、学生が「レトロ」な大正・昭和期のデザインに憧れその雰囲気を再現しようと、ネットで画像検索する光景をしばしば見かける。しかし、デジタルではサイズ感や素材や印刷の特徴がつかめない。結果として学生たちのレトロ風のデザインはどことなく芯のないものになることが多い。

 

こういった点からも、研究対象としてのみならずデザイン教育の現場においてもエフェメラを利用する価値は大いにあると思う。サイズやボリューム感、厚みやしなやかさ、手触りや匂い、印刷プロセスの特徴は実際の印刷物からしか学べないからだ。そして何より、100年前に作られたものに触れる感動はデジタルでシミュレーションすることはできない。エフェメラは、過去を生きた市井の人々の、その生の一瞬を垣間見せてくれるのだ。

高木毬子(たかぎ・まりこ)

ドイツ、デュッセルドルフ生まれ。デザイナー、著述家、研究者。2012年ドイツ・ブラウンシュヴァイク美術大学で博士号、2014年英国レディング大学で修士号を取得。同志社女子大学学芸学部メディア創造学科教授。専門はタイポグラフィとブックデザイン。

参考文献:

Drucker, Johanna, and Emily McVarish: Graphic Design History. A Critical Guide. Pearson, Boston 2013.

 

Twyman, Michael: John Soulby, Printer, Ulverston: A Study of the Work Printed by John Soulby, Father and Son, Between 1769 and 1827. Museum of English Rural Life, University of Reading, 1966

 

Twyman, Michael: Printing 1770–1970: an illustrated history of its development and uses in England. Eyre & Spottiswoode, 1970

 

Lewis, John: Printed Ephemera. Cowell, 1963

 

Anatomical flap book

https://library.jefferson.edu/librarynews/index.php/2016/07/29/anatomical-flap-books-new-virtual-exhibit/

https://keisobiblio.com/2016/08/10/suzuki04/4/ (2023.09.25)

公開:2024/03/18
修正:2024/03/21