コマ撮り/グラフィックデザイン/時間についての私的考察
デジタルツールの発展でグラフィックデザイナーが動画を制作することはごく自然の風景となった。だが、それらのツールが提供するシームレスさは、グラフィックと映像それぞれのメディア性の本質や、両者の横断によって見えてくるものからデザイナーを遠ざけている。グラフィックにおける時間的側面、あるいは映像におけるグラフィック的側面について、グラフィックと時間のあいだで活動を続ける岡崎智弘が考える。
◉グラフィックデザインと時間
この10年ほどグラフィックデザインと映像デザインが交叉する領域に向き合ってきた。そのあいだに取り組んできたコマ撮りによるデザインの実践から、自分の目と身体で得た経験を軸に、いくつかの「時間」を手掛かりとしたグラフィックデザインとその周辺について、この機会に私なりに書いてみたいと思う。
まず、私が二つの領域を往復するようになった背景についてふれておきたい。私はもともと映像表現に興味を持っていなかった。学生だった1999年〜2000年代初期は制作ソフトもまだ高価だったし、授業でアニメーションを制作したときもピンとこなかった。どちらかというと華やかな広告業界のグラフィックデザインに魅せられ、大学卒業後は印刷物をメインに扱うデザイン事務所に身を置いた。
2010年の春だろうか。あるときポスターをつくろうと思い立ち、デジタル一眼カメラ(Canon EOS 5D Mark II)を購入した。連続してプレビューを見ていたとき、私は「写真を連続させると動いて見える」ことにあらためて気付いた。そのときの興奮はいまでも忘れられない。
同時期に見ていたステファン・サグマイスターの作品も、私の映像表現への関心を後押しした。サグマイスターのグラフィックデザインに倫理的な概念を持ち込もうとする姿勢に心を打たれ、その活動を熱心に追っていたのだ。サグマイスターは写真表現によるタイポグラフィ作品シリーズを発表しており、そのなかに時間感覚を持ち込んだ作品や映像による作品もあった。
平面の視覚情報を設計するグラフィックデザインは、空間軸/時間軸、2次元/3次元に対して柔軟に変容可能なポテンシャルをもつ。だが、当時の私はグラフィックデザインに時間性を与えるとどんなことができるのだろうか? という単純な興味からこのテーマを探究しはじめ、自主制作したコマ撮り映像を自身のサイト「tomohirookazaki.com」に発表していった。
これらをきっかけに映像の仕事の依頼も舞い込み、私は時間軸を持つグラフィックデザインと真っ向から向き合うことになった。サグマイスターが「もうすぐ、街中の広告やグラフィックのすべてが動画化して動きはじめるというウンザリする世界がやってくるだろう。でも誰か、とてもしつこいタイプの人間がこの状況を打開してくれるはずだ」というような内容をどこかの雑誌に書いていた。この言葉は今も私のマインドセットとしてこころに刻まれている。
「Having guts always works out for me」は静止画でありながら時間軸的な体感があり、映像表現としては「Over time I get used to everything and start talking it for granted」や「Keeping a diary supports personal development」等が制作されていた。
tomohirookazaki.com(2010年)ステファン・サグマイスターの単語ごとにビジュアライズしていく手法に影響を受けていることが見て取れるが、この制作体験で時間軸のデザインに没頭していく
◉時間の質感
印刷物のデザインにおける紙のように、映像にも質感がある。まず、画面表示速度による質感だ。これは、その動画がどのくらいの速さで画像を連続表示しているかによって異なる。その速度は1秒間に更新する画像の枚数を示す「fps(frames per second)」という単位で書き表される。10fpsのコマ撮り映像だと写真一枚一枚の刺激が個別に目に届き、カタカタとクラフト感を感じるような質感になる。15fpsではクラフト感を感じつつもリアリティのある質感。30fps(テレビ放送と同等)では日頃見慣れた、いわゆる「映像的」な質感となる。それ以上の60fpsになると滑らかで、印刷でたとえるならツルツルなアート紙だろうか。
次にアニメーション自体の質感がある。コマ撮りは、物体を人の手で動かして撮影することの連続によって動きをつくる。その際の動かす量の差分が、動きの質感となる。この差分への感覚は、グラフィックデザインの文字間調整と似ているように感じる。いまから撮影する一コマは、その物体が自らの動力で動き始めた瞬間なのか、それとも別の動力で動かされている状態なのか? 全体のシーケンスの中でこの差分はどのようなバランスにあるのか? などと考えながら対象物を動かす。
「動き」という短い時間についてデザインという技術によって関与することで、このような時間の質感の要素が立ち現れる。そうしたグラフィックデザイナーが好むようなディテールの世界に没入する作業も、私の楽しみのひとつだ。余談だが、最近私は15fpsのコマ撮りアニメーションのなかの特定のコマだけを30fpsに刻む作業を好んで行っている。その行為には時間をまぶしているような感覚があり、動きにほんのりと生っぽい香りが立ち現れるのがおもしろい。
グラフィックデザインとコマ撮りには不思議な類似性を感じるが、それは近代のグラフィックデザインの成立に写真が主要な役割を果たしてきたことに由来している気がする。写真は実空間に要素を構成し、そこから得られる光を平面に定着させる。写真を時間を止めて保存する行為だとすれば、コマ撮りはさらにそれを時間という形式で上書き保存する行為ともいえる。モホリ=ナジはカメラの光学性とグラフィックを合流させたような実験映像も制作していたが、彼が現代に生きていたら写真を動かしはじめて、何か新しいコマ撮りを始めるのではないか、と私は思っている。
さらに印刷と写真のあいだにも深い関係がある。現在はすべての製版工程をデジタル処理で行うが、21世紀初頭までは原稿を写真撮影してフィルムにすることで製版を行ってきた。また、文字組に関しても、写真植字で印画紙に焼き付けた文字をピンセットで配置していた。世代的に経験はないのだが、ピンセットや指先に意識を集中して物体の物性に関与していく写植には、物体を触って撮影をするコマ撮りと同じような感覚を感じる。
それは、世界そのものを確認しながら現実の変化を体感しているような感覚、その物性に驚きと尊敬を抱きながらその振る舞いを動きに変換する感覚だ。
紙の物性でつくるコマ撮りの実験群(2021年)
◉続けることで見えてくるもの
デザインとはほとんどの場合、なんらかの完成を目指す行為だ。だが、「つくっている最中にこそおもしろいことがある」というのもひとつの真理だ。忙しさの中では忘れがちなこの側面について、新型コロナウイルスの混乱によって生まれた時間のなかで向き合ってみたのが、《STUDY》というコマ撮りによる実験プロジェクトだ。これは自分が気になっているがまだよく分かっていない感覚について、その制作途中もふくめて観察するための「模型」としての作品で、完成というゴールも目的もない。
《STUDY》(2020年~)
《キューブのスタディ中、最初のマッチ棒》(2021年1月)
さまざまな方向性のスタディのなかで、もっとも長く取り組んでいるのが《Matches》である。たまたま事務所にあったマッチ棒をフレーム内に置いてみたことで始まったこのスタディは、開始から丸2年が経過し、現在3年目に入っている。基本的には始業する前の毎朝2、3時間を使って日課のように制作し、その日できたものをすぐにSNS上に記録としてアップロードしている。
《Matches》(2021年1月~2023年1月までの丸2年分)
SNS上に毎日イラストレーションやプログラムをアップするような動きはすでにあったが、技術を共有しながらコミュニティを育むような意識は《STUDY》にはなく、あくまでも自分で観察し学んでいく行為をSNS上にも開きながら継続するというスタンスをとっている。この活動を始めるにあたって参照したものはないが、始める原動力となったような作品はある。それは『おじいちゃんの封筒 紙の仕事』(ラトルズ、2007)で紹介されている、著者の祖父が紙箱などを素材につくっていた自作封筒である。私は2008年「祈りの痕跡。」展でこれらの作品を目にし、言語化されることはない、ただ作り続けることのなかにあるものに強く心を打たれた。
スタディの最初の頃は、短い時間における動きの質感や構造が興味の中心だった。だが継続することによって、その関心は次第に変わっていった。コマ撮りは写真の一枚一枚の蓄積が動画となるが、同じように、日々動画を積み重ねていくことの意味について考えるようになったのだ。
20世紀のモダンデザインは資本主義やテクノロジーを背景に、時間や空間を超えた抽象的で絶対的な価値を駆動させる装置として発展してきた側面がある。とくに近年では、デザインは人間のスケールを超えた速度やダイナミズムに支配されているようにも感じる。だが、私たちの生は有限で、つねに変化し続ける存在だ。抽象的な価値ではなく、変化し続ける生を軸としたデザインの営みはありえないのだろうか? たとえばサグラダ・ファミリアの彫刻づくりのように、動画作りを継続することでなにが見えてくるのか。その観察のためにマッチ棒のスタディを、少なくとも10年は続けたいと思っている。
◉補記
本記事の執筆を依頼され内容についてやりとりするなか、本サイト編集長から関連するかもしれないものとして『A book of matches』という本を紹介してもらった。この本はペンタグラムの創設メンバーであるテオ・クロスビー、アラン・フレッチャー、コリン・フォーブスらが同社設立の頃に連名で制作したA4判、モノクロ16ページの小冊子である。内容はマッチ棒をモチーフにしたグラフィック表現の図鑑のようなもので、表現されるメディアや見せ方、構成などが異なる57の視覚レトリックが紹介されている。
本書におけるプリミティブな表現とマッチ棒のミニマルな造形の組み合わせには、独特の気持ち良さがある。マッチ棒をその用途から切り離し、「棒形状の先端に丸いアクセントがある構造物」として捉える姿勢は、ブルーノ・ムナーリ『かたちの不思議』シリーズなどにも共通するものだ。なんでもない「単純な物体」としてマッチ棒が選ばれているのは、私の活動とも通じるところがある。後半には連続した写真でマッチ棒が焼失、炭化していく作例もあり、時間表現も取り扱っている。
本書はマッチ棒の隣にタバコが置かれた写真に、次の言葉が添えられて終わる。「他の物体を加えれば、またふり出しから始めることになる」。この言葉は本書の実験が冊子に記録された時間の外へと続く可能性を示している。つまり、このプロジェクトもそれ自体としての「完成」を目的としていない。長い時間軸で見れば、私のマッチ棒のスタディも『A book of matches』の延長座標に位置し、その「可能性」をコマ撮りという方法によって拡張する試みと捉えられるのかもしれない。
岡崎智弘 おかざき・ともひろ
1981年神奈川県生まれ。東京造形大学デザイン学科卒業。
https://www.swimmingdesign.
公開:2023/03/20
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