エクスペリメンタル・ジェットセットとのインタビュー(2005年、再録)
エクスペリメンタル・ジェットセット(以下、EJ)は、1997年にオランダで結成されて以来、現代オランダを代表するデザインチームとして国際的に活動し、影響を与えてきた……というのは、よくある紹介文だ。EJといえばただちにHelveticaを全面的に使ったタイポグラフィックなデザインが思い浮かぶ人は多い。EJのデザインは一種の「オルタナティブ」的な身振りの規範となり、2010年代のアート、カルチャー系で同系統のデザインが普及する呼び水ともなった。しかし、EJの活動の強度はモダニズムやグラフィックデザイン史への強い批評的意識から立ち上がっている。
そこで今回は、かれらの考え方の文脈がコンパクトにまとまっているインタビューをお届けしたい。本インタビューは評論シリーズ「Documents of Contemporary Art」の1冊、批評家アレックス・コールズが編集した『デザインとアート(Design and Art)』(MIT Press、2007)に収録されたものの再録、邦訳である。これはもともと2005年にイギリスのデザイナー、リュシエンヌ・ロバーツ(Lucienne Roberts)が聞き手を務めたインタビュー集『Drip-dry Shirts』(AVA Publishing、2006)のために収録されたもので、そのバージョンはここで読める。その後、『デザインとアート』に収録されるにあたって、編者からの質問への返答も含めて全面的に増補・リライトされた。原文はここで読める。
EJ自体もつねに変化しつづけている、くれぐれも2000年代半ばのテキストだと書き添えてほしい、というのはかれらの弁だ。しかし、本インタビューにみられる批評的な態度は、いまなお重要性を失っていない。また、これは過去半世紀、経済活動にコミットする一方、日本のグラフィックデザイナーが意識化してこなかった部分である。
なお、もともと本インタビューのイントロダクションとして用意したテキストはここに掲載するには長くなったので、独立したエントリとしてアップしてある。[室賀]
(ヘッダはエクスペリメンタル・ジェットセット公式サイト上アーカイブより)
1:教育とインスピレーション
私たちは3人ともアムステルダムのリートフェルト・アカデミーで学びました。マリーケとダニーは97年卒で、エルウィンは学年が違って98年卒です。その時はリンダ・ファン・ドゥールセンがとても影響力があって、私たちにとっても彼女が一番好きな先生でした。今なおとても刺激を受けています。
また、もう一人私たちに大きな影響を与えた人物は、現代アーティストのリチャード・プリンスです。彼の作品を教えてくれたのはリンダでした。私たちはとくに彼の「ジョーク・ペインティング」シリーズを気に入りました。Helveticaで組まれた数行の文章からなるこれらのペインティングを、当時とても新鮮に感じたのを憶えています。その頃のグラフィックデザインといえば、多重レイヤー、テクノやグランジのタイポグラフィ、ガチャガチャしたレイアウトばかりでしたから。
プリンスの作品(「ジョーク・ペインティング」だけではなくて複数の写真で構成する「gang」シリーズも)は「脱構築主義者」の美学を使わなくても、ポップカルチャーが分析・解体して再構成されうることを示してくれました(脱構築主義も当時のグラフィックデザインで流行していたもので、私たちは大嫌いだったのです)。彼の作品にあったハードでクールな「パンク゠ミニマリスト」感覚にはとても影響されました。(私たちの仕事がミュラー゠ブロックマンのようなスイスの後期モダニズム・デザインに影響されていると思い込んでいる人がいるのは面白いですね。でも、そういうデザイナーについて学んだのはわりと最近のことで、リチャード・プリンスがもっと重要な影響を与えています。)
もう一人、重要な影響を受けたのはデザイナーのボブ・ギルです。リートフェルト・アカデミーの図書室でホコリをかぶった彼の著書『Forget All The Rules You Ever Learned About Graphic Design – Including The Ones In This Book(グラフィックデザインについて学んだルールはすべて忘れろ:この本のものも含めて)』を見つけました。
ギルの作品には即座に衝撃を受けました。もっとも感心したのは、彼の「問題/解決」モデルです。この弁証法モデルは時代遅れで、硬直的で、教条的、一面的、古風のように受け止められがちです。でも、私たちにとってこの「問題/解決」モデルはこのうえなく美しく感じられました。もちろん、そこには悲劇的な側面があって、あらゆる解決はさらなる問題を呼び込むことにしかなりません。加えて、私たちはみな、完全な解決など存在しえないことが分かっています。しかし、まさにこの悲劇的な側面こそが、このモデルを美しくし、私たちにとって有用なものにしているのです。
最後になりましたが、ウィム・クロウェルに触れないわけにはいけません。もっとも重要だったのは、彼の仕事においてその造形とアプローチが区別できないことです。クロウェルの仕事においては、造形とアプローチが同義なのです。
彼のデザインにはある特異な性質があります。高度にシステマティックであるのですが、彼自身のロジックのうえに構築された高度に個人的なシステムなのです。小さなロゴから彼の活動全体にいたるまで、すべての作品がそれ自身においてシステマティックな世界を見せています。
このようなシステマテイックな世界はとてもパワフルに現前し、同時に興奮や不安ももたらします。自分自身のロジックが別のロジックと衝突する感覚、突如自分とは違うリズムや理性、ルールにひっぱりこまれるような感じです。自分と違った視点から世界を眺めさせる、深遠な体験です。クロウェルの作品にはそのような体験を確かにもたらすトリガーのようなところがあります。
(しばしば、デザインが転覆的な性質を得るためには「ふつう」であってはならない、予想外、非理性的、反逆的でなければならないように思われています。私たちはまったく同意しません。私たちの見解では、一貫性、そして揺るぎないな論理こそが、本当に人の足元を揺るがせ、考え方に変化をもたらしうるのです。)
2:モダニズムと機能主義
自分たちをモダニストと思うかどうかというのは、返答不可能な質問です。その答えはモダニズムをどう定義するかによって変わるからです。
たとえば、そうですね、モダニズムを1850年代から始まって1910年に頂点を迎えその後急速に衰退していた明確な歴史的枠組みとする考え方がありますね。なかなか説得力のある定義です。その一方でもっとハーバーマス的なモダニズムの解釈もあります。啓蒙主義とともに始まった、まだ完遂されていないプロジェクトとしての現代性に関連付ける考え方です。これもまた、もっともらしい定義だと思います。この両極のあいだに、数多くの別の定義が存在します。そして私たちはこれらの定義のあいだに引き裂かれているため、最初に述べたような質問に答えるのが難しいというわけです。
確実に言えるのは、私たちが(言葉の一般的な意味において)機能主義者ではないことです。狭い意味での「機能」という言葉には興味がないんです。私たちにとって、椅子はただ座るための何かではありません。それはまた、ある種の思考方法が体現されたものとしても機能します。このような機能のより「広い」定義は、実際のところ後期ではなく初期のモダニズムにより接近する考え方です。
簡単な例を挙げてみたいと思います。名著『第一機械時代の理論とデザイン』でレイナー・バンハムは、リートフェルトの肘掛け椅子がきわめてシンボリックな構造をしていることを論証します。この椅子のデザインはたんに「機能的である」として片付けられるものでない。それは空間の無限の広がりについての声明でもあるのです。私たちはこういったことに興味があります。つまり、あるイデオロギーの体現としての機能性です。
3:美学とユートピア
私たちはデザインが持つユートピア的性格を強く信じています。強く確信を持っている部分で、私たちを動かす原動力です。ただ、このユートピア的側面が功利主義、あるいは社会派メッセージのなかに見出せるものかどうかは分かりません。これらの特定の関与形態はデザイナーにとっては強力なインスピレーションの源となりますが、しばしば本当の意味での弁証法的な契機を欠いています。私たちの考えでは、真のユートピア主義的デザインとは人びとの意見を変えるだけではなく、人びとの思考する方法を変えるようなものであるべきです。
もし、私たちが断片化した社会に生きてしまっているのであれば(そうであると思いますけれど)、この疎外状況を打破する唯一の方法は、社会の断片化にデザインの全体性によって対抗することです。この意味において、ユートピア的性格はデザインされた物体内部の組織編成、その内面の論理のなかに見出されます。ここで話は、先ほど話題に出たクロウェルの作品の特異な性質や、イデオロギーの象徴としてのリートフェルトの椅子につながります。
それは、さまざまに異なる方法で定義できます。マルクーゼは(1978年の同名のエッセイにおいて)その「美的次元」について語っていますし、弁証法的、批評的、内部論理、内的全体性などさまざまな次元から参照できるでしょう。私たちの見解ではこれらはすべて、同じひとつのものの別の呼び方です。
最近、アーティストのジョン・マクラッケンの次のようなコメントをたまたま読みました。「ひとつの作品がリアリティ、あるいは世界を変えたり変容させたりことができる、と私はつねに感じてきました。つまり、物事の成り立ちに転換をもたらすようにチューニングされた作品です」。この「チューニング」というほとんど音楽的な概念は、まさに私たちがデザインのユートピア主義的な可能性を見出している部分を言い当てています。(私たちはこういう考え方があきれるほど理想主義的であると思われることを自覚しています。でも、それこそが私たちなのです。)
この最後の見解について掘り下げてみると、私たちはマクラッケンやジャッドのようなミニマリズムのアーティストが非常に政治的であると考えています。ジャッドの作品におけるモジュール性はとくに反体制的です。モジュール性というのは基本ユニットの反復ですが、それはつねに無限の概念に向かうようにみえます。結局、繰り返しというのは「無限」の運動を志向する現象なのです。
私たちの見解では、この無限の概念にこそ、私たちが日常の疎外状態を突破する可能性が秘められているのです。もっともラディカルな作品群のあるものにはこの無限の感覚が共通してみられ、それゆえ私たちに世界を異なった見方から眺めさせる転覆的な力を秘めているのです。
面白いことに、私たちはジャッドをしてデザインの世界に到達させるのは(家具をプロデュースするような試みではなく)そのモジュラー性だと私たちは考えています。誤解を恐れずに言えば、さまざまな反復プロセス(大量生産、グラフィック複製)と本質的に切り離せないデザインというものは、ミニマルアートのモジュール性に緊密につながっていると考えます。
4:アドヴィルとエクサドリン
私たちにとってグラフィックデザインは途方もなく重要なものです。私たちの生活のあらゆる瞬間にそれはあります。私たちは人間が行うあらゆる行為を、それが一見まったく関係なさそうにみえる場合でも、グラフィックデザインのコンテクストにおいて考えてしまうんです。テレビでドキュメンタリーを観る、ポップミュージックを聴く、散歩をする、ライブに行く、教壇に立つ、友達とぶらぶらする、さらには眠る。すべてがデザインのプロセスの一部になるんです。
最近、イギリスのデザイン誌『Grafik』からの「2004年はどんな年でしたか」という質問に対し、短いコメントを寄せました。「1997年に仕事を始めて以来、週、月、年にあった普通のリズムがだんだんとなくなって、いまや締め切りにつぐ締め切りのなかで生きています。そのなかで変わらないものといえば、日々の仕事へのプレッシャーと、アドヴィル400錠(慢性頭痛用)、エクサドリン錠(とくに激しい頭痛用)そしてマクサルト錠(偏頭痛用)〔注:いずれも頭痛薬の商品名〕だけです」。
なので、あなたの質問〔デザインは苦労に値するかどうかという質問〕は、とてもいい質問です。グラフィックデザインの実践は私たちに多くの肉体的不快をもたらしています。私たちメンバー全員、いずれも少々機能障害があり、少々神経質です。つまり、私たちは日々対応を迫られている締め切りにまともな精神状態で向き合っていないのです。大きなプロジェクトに伴う責任感、よい仕事をし期待に応えねばという継続的なプレッシャーによって私たちはボロボロになり、頭痛、過食、めまい、不眠に襲われているのです。
しかし、なお、私たちはそこまでするだけの価値はあると思っています。私たちはポストモダン的な諸動向(新保守主義や右翼ポピュリズム、宗教原理主義など)に支配されているようにみえる世界に生きています。モダニズムから発生した専門領域であるグラフィックデザインの仕事は、他のどこにおいても見出せない価値やテーマを探求する機会を与えてくれます。私たちにとって、グラフィックデザインには大きな慰めがあるのです。
デザインの政治的な側面についての先だっての質問にお答えして、次のように書きました。「この疎外状況を打破する唯一の方法は、社会の断片化にデザインの全体性によって対抗することです」。これはたんにレトリック的な声明ではありません。私たちにとってこれはとても私的な考え方なのです。グラフィックデザインの実践もまた、私たち自身の疎外状況を打破するための方法なのです。
5:アートとデザイン
私たちはグラフィックデザインをアートとは思いません。 しかし、アートはデザインのひとつの形態だとは考えます。アートそのものを定義することは難しいのですが、そのコンテクストを定義することは難しくありません。 展示空間、ギャラリー、美術館、アート誌、アート系出版社、アート史、アート理論など明確な基底構造が存在するからです。アートとは、この特定の基底構造のなかで機能するように意図された物体、コンセプト、活動からなる生産物として見なすことが可能で す。私たちの考えによれば、この生産物はまちがいなくある特殊・固有なデザインの形態として見なせます。
アートとデザインということで言えば、モダニズムの変遷のなかでアートとデザインの関係性についての視点が変化したことが興味深く思われます。初期のモダニズムは、アートとデザインの統合を熱望していました。 それこそが初期モダニズムの最大の特徴だったとすらいえます。モホリ゠ナジやリシツキーのような初期のモダニストたちは、アートと日常を統合するという理念に突き動かされていました。付け足しの装飾的なレイヤーではなく、近代生活と十全に統合されたものとしてのアート、という考え方です。後期モダニスト、たとえばウィム・クロウェルや晩年のリートフェルト(前期とは思想を異にする)のような人々は、アートとデザインのそのような統合にはラディカルに反抗しました(クロウェルの場合はいまもそうですが)。
レイナー・バンハムは『第一機械時代の理論とデザイン』の結論において、後期モダニストは機能主義、普遍主義、功利主義の理想を追い求めるあまり、初期のモダニストの理想(アートと日常の統合)を多かれ少なかれ犠牲にしてしまった、ということを示唆しています。これは面白い見解だと思います。それでもなお私たちは、デザインとアートのあいだに両者をつなぐ歴史的、モダニスト的リンクを回復する必要性が確かにあると考えています。
————エクスペリメンタル・ジェットセット 20.02.2005 / 15.01.2006
補足
私たちが以上のような「アートをデザインのいち形態」 としてみる見解を示したとき「アート的なデザイン」や「デザイン的なアート」を念頭に話していたわけでは必ずしもありません。私たちはたんにアートの素材的な条件について認識し、文化生産のいち形式として(そしてデザインのある特定の形態として)アートを定義しようと試みました。アートを矮小化しようというものではないのです。実際のところ、その反対です。アートをその物質的なコンテクストや文化的インフラのなかに「基礎づける」ことによって、私たちはアートを現実そのままに提示しようとしていました。つまり、具体的な世界のなかの具体的な活動としてです。
アートは広告やブランディングの中の世界のように、現実から遊離、切断された領域としてみなされることがあまりにも多くあります。私たちはアートをそれらとはまったく違うものと認識しています。つまりアートとは、私たちをとりまくマテリアル・ワールドをかたちづくる、きわめて意識的な行為であると考えているのです。そして、まさにその意味において、アートをデザインのいち表出であると見ています。なぜなら、つまるところ、私たちをとりまくマテリアル・ ワールドを意識的に形づける行為、これこそがただしい意味におけるデザインという行為なのですから。
エクスペリメンタル・ジェットセットは、1997年、マリーケ・ストルク、エルウィン・ブリンカース、ダニー・ファン・ダンゲンによって結成されたアムステルダムをベースに活動するグラフィックデザイン・チーム。近年の関連出版物に『Statement and Counter Statement』(Roma Publications、2015)、『Full Scale False Scale』(Roma Publications、2020)など。https://www.experimentaljetset.nl/
公開:2020/07/20
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